<< 中島裕之選手が遂げた、飛距離・確実性の進化 | ホーム | 2010/03/15 西武vsオリックス練習試合 >>
アンダーアーマーオンラインショップ 『DOME SHOPPING ZONE』

ライオンズ監督列伝~黄金時代から戦国時代へ


アンダーアーマーTOPページにリンク クリアランスセール(30%OFF)468×60

第二次黄金時代を率いたのは、巨人軍V9時代の正捕手森昌彦だった。彼がバッテリーコーチとして西武ライオンズにやって来たのは1982年、広岡監督の就任と同時だった。森コーチは広岡野球を忠実に再現しようとし、率先して嫌われ役を買って出た。それは広岡・森がグラウンド内に留まらず、グラウンド外でも選手を管理しようとしたためだった。もちろんこの徹底した選手管理が黄金時代の礎を築いたわけだが、それに気づく前の選手たちからは不満が溢れ出ていた。

広岡野球に忠実に従った森コーチだったが、実際ライオンズで広岡監督に仕えたのは3年だけだった。コーチ就任3年目となった84年、森コーチは広岡監督と対立し、コーチ職から退いている。85年の1年間は文化放送の解説者としてグラウンド外からライオンズを見続けていたが、その年のオフに広岡監督が退任すると、森昌彦がその後任に指名された。そして監督に就任すると同時に、森昌彦から森祇晶(まさあき)に改名した。

森監督がチームを率いるに当たり、広岡前監督は「勝って当たり前のメンバーが揃っている」と言い残した。だがそれはまさにその通りだった。黄金時代のライオンズは、V9時代の巨人よりも強かったと言う評論家も少なくない。森監督が引き継いだライオンズは創設8年目にして、すでに常勝が義務付けられたチームに成長していた。

コーチ時代の森監督は徹底した管理野球を実践していたため、選手たちからはかなり煙たがられていた。だが監督になってからの森祇晶を知る選手たちからは、森監督に対し好意的な言葉ばかりが聞こえてくる。それもそのはず、森監督は「主役は選手」というポリシーを貫いた監督だったのだ。優勝を決めて、チャンピオンフラッグを持ってグラウンドを一周する際も、森監督はそのペナントを選手たちに持たせた。そして自分は一番後ろから選手たちのあとに付いて行った。監督としての責任を全うしつつも、決して選手たちよりも前に出ることのない監督、それが森祇晶という監督だった。

思い遣りがあり、穏やかな性格と思われている森監督だが、しかし現役時代はそうではなかった。例えばバッテリーを組んでいるピッチャーが調子が悪いと、普通のキャッチャーであれば何とか立ち直らせようと尽力する。時にはピッチャーのミスを自ら被り、ピッチャーを守ることさえする。それ故にキャッチャーは「女房役」と言われる。だが森捕手は違った。ピッチャーの調子が悪いと、それを逐一監督・コーチに報告した。そのためピッチャーからは「責任逃れ」と批判されたことも多々あった。現役時代の森捕手はそういう風に見られた選手で、長嶋茂雄とは犬猿の仲だったとも言われている。

だがライオンズを率いた森祇晶を知る選手の多くは、今なお森監督を慕っている。清原和博選手は2005年に森祇晶が野球殿堂入りした際、シーズン中にもかかわらずセレモニーに駆けつけているほどだ。その森監督はライオンズを9年率い、8回のリーグ優勝と6回の日本一を達成している。リーグ優勝できなかったのは近鉄に敗れた89年のみで、もしこの年ライオンズが優勝していたなら、V10を達成することになった。だが89年10月12日の近鉄とのダブルヘッダーで、渡辺久信投手がブライアント選手に勝ち越しホームランを被弾し、その夢は潰えてしまう。

そして93年にヤクルト、94年巨人に日本シリーズで連続して敗れると、その敗戦の責任を取り森監督は勇退を決めた。パ・リーグを制覇しても、日本一になれなければ意味がない。それが常勝ライオンズを率いる監督に課せられた宿命だった。だが森監督の勇退により、ライオンズの黄金時代も同時に終焉を迎えた。

森監督の勇退と共に、黄金時代を支えた選手たちは次々と他球団へと移籍していってしまった。サウスポーエースの工藤公康投手とキャプテン石毛宏典選手はホークスへ。その後も清原和博選手が巨人に移籍してしまうなど、チーム力は急速に低下していった。そんな弱体化していくチームを95年に引き継いだのが、堤義明オーナーのお気に入りだった東尾修だった。

東尾監督の誕生に、西武球団は当初否定的だったとされている。それは現役時代に起こした賭け麻雀事件が原因だった。しかし堤オーナーの希望、他に有力な監督候補が見つからなかったという事情もあり、東尾西武は誕生した。

西武球団としては、FAで移籍が濃厚とされていた工藤投手を引き止めるために東尾修を監督として招聘していた。東尾修と言えば、現役時代は工藤投手とは師弟関係にあり、兄弟同然の存在だった。その東尾修が監督に就任すれば、工藤投手も移籍することはないと球団は読んだのだろう。だが現実は異なり、工藤投手はダイエーホークスにFA移籍してしまった。

この時のことを東尾監督は「1年目だったし、編成に口を出すことはしたくなかった。だから編成に頼まれるまでは、工藤と話すつもりもなかった」と言っている。また工藤投手は「東尾さんに行くなと言われれば、行かなかった」と著書に書き残している。

急速にチーム力が低下したライオンズを預けられつつも、東尾監督が指揮を執った7年間でライオンズは一度もBクラスに転落しなかった。そして97・98年は戦国時代に突入したパ・リーグで連覇を果たしている。常勝時代直後のライオンズを率いたということもあり、7年間で2度のリーグ優勝、日本一の達成なしという成績だけでは監督として高い評価を得ることはできなかった。だが普通に考えれば主力選手が大量流出した状況において、チーム内の世代交代を成功させ、一度もBクラスに転落しなかったことは十分評価できる結果だった。

現に監督として松井稼頭央選手松坂大輔投手の2人をメジャーリーガーに育て上げている。そしてアマチュア時代は無名投手だった西口文也投手を球界を代表するエースに仕立て上げ、下り坂にあった潮崎哲也投手を先発に転向させて復活させている。

また横浜でくすぶっていたデニー友利投手をトレードで獲得すると不動のセットアッパーに磨き上げ、97年オフに戦力外扱いされていた西崎幸広投手を日本ハムから獲得するとクローサーとして蘇らせた。監督としては日本一を達成することはできなかったが、しかし指導者としては日本一とも言える手腕を発揮した。このような実績のせいか監督退任後、東尾監督は「投手コーチをやってみたい」とよく口にしている。

東尾監督の投手を見る目は誰もが認めるところだ。監督時代も1年目にはチーム防御率2.98という近年では驚異的な数字を残しているし、どんなに悪くても監督最終年の3.88と、打高投低の時代においても4点台のチーム防御率を記録することは一度もなかった。だがチーム打率に関しては優勝した2年以外は軒並み低く、編成の補強失敗が大きく響く結果となってしまった。指導者としては手腕を発揮するも7年目には3位となり、東尾監督は解任されてしまった。

森監督のその後は、2001~2002年に横浜ベイスターズを率いたが、3位・6位という結果に終わり2年で退任している。監督退任後はアメリカで永住権を取得し、ハワイで静かに暮らしているようだ。

一方東尾監督は評論家活動のかたわら、バスケットボールチーム・東京アパッチの社長を務めたり、飲食店の経営などを行っている。昨年オフは楽天の新監督候補にも名前が挙がったが、結局現場復帰には至らなかった。だが2010年は有資格最終年にして野球殿堂入りを果たす快挙を成し遂げている。

第二次黄金時代を率いた森監督、戦国パ・リーグでチームを率いた東尾監督。2人のタイプはまるで違えど、どちらも素晴らしい監督だった。森監督は広岡監督の遺産をしっかりと守り抜き、厳しいプレッシャーの中においても結果を出し続けた。そしてそのあとを継いだ東尾監督は、急速に衰えたチームを預けられながらも一度もBクラスに転落することなく、82年から続いていた連続Aクラスという記録を死守し続けた。

2001年を最後に東尾監督が退任すると、今度は伊原春樹“暫定”監督がチームを率いることとなる。

日刊埼玉西武ライオンズをフォローしよう!
baseball 記事を楽しんでもらえたら、ランキングに1球の投票をお願いいたします。
にほんブログ村 野球ブログ 埼玉西武ライオンズへ

価格.com 自動車保険

2010年03月16日 00:44 


Copyright(C) 2009-2012 日刊埼玉西武ライオンズ All Rights Reserved.