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もしもあの鳥になれたなら第2章 -4-


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吉井も恒も、西尾が監督に就任した後にドラフト指名された選手で、西尾にとっては愛弟子と呼べる二人の存在だった。ピッチャー出身の西尾には二人の気持ちが良く分かる。特に負けん気の強い吉井は、西尾の現役時代にそっくりだった。西尾は死球を当てた回数でダントツの日本記録を持っているのだが、吉井もまた徹底して打者の内角を攻めるピッチングスタイルで、現役ピッチャーの中で与死球の数はナンバー1だった。
一方恒はまったく正反対のピッチャーだった。いつもバッターから遠い場所での勝負を選び、交わすピッチングスタイルを得意としていた。しかしそれは、まだ内角を攻められるコントロールがなかった頃の話で、今ではすっかりコントロールを身に付けて内角で勝負できるまでに成長していた。その成長に気が付いた西尾が、紅白戦で吉井と恒を投げ合わせたのだった。そして結果、二人とも予想以上の出来で、レグルスにはエースピッチャーが二人いると言ってももはや過言ではなくなった。

               *

恒はシャワーを浴びてクラブハウスを出ると、寮に戻る前に狭山不動尊へと向かった。吉井との投げ合いで勝つことはできなかったが、二百円という小額な賽銭を考えれば十分過ぎる勝ちに等しい結果だった。勝ったらもう一枚百円玉を入れに来るという約束を、恒は律儀に果たしに来た。
しかし一試合投げ抜いた後の六十段以上の階段は、登るのに相当な覚悟を強(し)いられる。丁度真ん中あたりまで登って来ると、恒は紅葉を楽しんでいる振りをして小休憩を取った。秋季キャンプが終わるこの時期、不動尊が建立されているこの山は、夕陽と同化してしまう程の赤で一面を染め抜いていた。その景色は、これから厳しい冬を迎えてすべて枯れ朽ちてしまう葉たちが、最後の力を振り絞って自らの美しさを競い合っているようにも見えた。
この不動尊の階段には、道沿いにたくさんの幟(のぼり)が掲げられている。そしてその一本一本の幟を良く見ると、選手一人一人の願が掛けられていた。恒は自分の願いが込められている幟を紅葉の隙間に見つけた。そこには「健康第一」と大きく書かれ、右端に小さく平尾恒と記されていた。恒はその旗に、今年一年間怪我なくシーズンを過ごせたことを感謝し、手を合わせた。そして改めて意を決し、残り半分の階段を一段飛ばしで一気に駆け登っていった。ぜいぜいと息を切らせながら境内までやってくると、恒はこの場所で初めて見る自分以外の人影を見つけた。今までこの境内で住職以外の人を見掛けたことは、ただの一度もなかった。
「あ、恒兄ちゃんだ!」
その人影は永美と啓太だった。
「やだ、平尾君、どうしたの?今までここで人を見掛けたことなんて一度もなかったのに、初めて見る人が平尾君だなんて、すごい偶然」
こんな高い場所に建立されていては、参拝者だってそうそう訪れないのだろうと恒は思った。
「今朝二百円しかお賽銭入れなかったのに、今日あんなに良いピッチングが出来たから、もう少し入れておかなくちゃと思って」
啓太は早速恒の足元にまとわりついていた。
「私たちも同じよ。今朝啓太と一緒に平尾君の必勝祈願をしに来た時、小銭があまりなくて、啓太の分しかお賽銭を入れられなかったの。だから今自分の分をね」
永美は同じことをしていた恒と自分たちが可笑しくて仕方なかった。
「けど丁度よかった、これ渡そうと思ってたから」
恒はポケットからボールを取り出した。
「もし試合に勝てたら、ウィニング・ボールは絶対永美さんに渡そうと思ってたんだけど、引き分けに終わっちゃいました。でも好投できたし、やっぱりこのボールは永美さんに渡したかったんです」
恒が差し出したボールには日付とサインが書かれていた。
「怪我、早く治してくださいね。でないと永美さんのことが心配で練習に集中できなくなっちゃいますから。永美さんは僕にとってはすごく大切な友達なんです。だから永美さんには、いつも元気な姿でスタンドで応援していて欲しいんです。そしたら、来年こそは絶対初勝利を上げられると思うんです。それと、僕が投げる試合は絶対にそのバレッタを着けて来てくださいね。僕にとって幸運のバレッタみたいだから」
恒の言葉の端々には、優しさと思いやりが溢れていた。言葉だけではない、心の底から溢れる真心。それに触れた永美の胸は感涙の重さに張り裂けてしまいそうだった。
永美は後ろ髪を束ねている、星型の穴が三つ刳り貫かれたパステルブルーのバレッタを、後ろ手にギュッと握り締めた。永美は今にも恒に抱きついてしまいかねないほど、胸に熱いものが込み上げて来ていたが、それを寸でのところで自制させた。しかし自制させる努力までを隠し切ることは出来なかった。
永美は啓太が生まれたその日に夫啓介を事故で亡くして以来、いつも気を張り続けて来た。それは啓太に父親がいないことで寂しい思いをさせたくない、悲しい思いをさせたくない、他の子との引け目を感じさせたくないという気持ちがそうさせていた。自分は母親だけではなく、父親の役目も果たさなくてはいけないという責任感を人一倍感じ、いつも啓太の幸せのことばかりを考えて、自分自身のことは蔑(ないがし)ろにして来たこの四年間だった。
永美は四年振りに、与える優しさではなく与えられる優しさ、与えられる温かさを体感した。張り続けられた緊張の糸は一気に弛み、自制はもはや利かない。身体はわなわなと震えだし、今にも涙が溢れてきそうだった。
「永美さん・・・・・・?」
恒は永美の目頭が熱くなっていることに気が付いたが、啓太は赤とんぼを追い駆けるのに夢中だった。
「ごめんね。私ね、啓太の父親を交通事故で亡くして以来ひとりで頑張りっ放しだったの。啓太には父親がいない分、他の子よりも幸せになってもらいたいって、いつもそんなことばっかり考えていて、自分のことなんて考えることもなかった。だから、こんなに優しいこと言われたのもすごく久し振りで、それでつい感極まっちゃったみたい。私って元々涙もろい方だったから。テレビの動物特集でもすぐ泣いちゃうくらい。そんな私が四年間も我慢して来たから、だから涙も溜まりっ放しだったのね、きっと」
眼鏡越しの切れ長の美しい形の瞳からは、大粒の涙がしとしとと零れ落ち、その粒が夕陽の赤を目一杯に吸い込み輝いていた。恒は男としての本能に身を委ね、永美の華奢な身体を吉井と投げ合ったばかりの腕で、ぎこちないながらも優しく包み込んだ。それはまるでスポンジケーキを手で持ち上げる時の感触と同じほどの優しさだった。
「永美さんはひとりじゃありません。啓太だっているし、妹さんだって、僕だっています。だからひとりで頑張り過ぎないでください」
永美の瞳のダムはついに決壊してしまい、どんなに堪えようとしても涙は溢れ出る一方だった。
「啓太は永美さんの息子に生まれて来て、他のどの子よりも幸せだと思います。だって今時こんなに子供のことを思ってくれる親なんて珍しいですよ。永美さんは最高の母親です」
緊張の糸が切れて泣きじゃくる永美を、恒は夕陽よりも温かく、そして力強く抱きしめた。
「・・・・・・ありがとう」
永美の言葉は咽(むせ)ぶままで、やっと聞き取れるほどだった。
恒は包帯の捲かれた永美の左腕を摩っていた。
「妹がね、イタリアに留学しちゃうの。四年間は戻らないみたい。その心配と啓太のことを同時に考えてたらつい呆っとしちゃって、車を電柱にぶつけちゃったの。でもかすり傷程度だし、大丈夫。すぐ治るわ」
恒の胸の中での永美の声は笑いと涙が半々に入り混じっていたが、しかしまだ涙の方に分があるようだった。
恒はイタリアと聞いて、どこにあるのかがパッと思い浮かばなかったが、とりあえず長靴型をしたピザの美味しい国ということだけは知っていた。
「平尾君が先発する時は、必ずこのバレッタを着けて応援するね」
永美は四年前に亡くした夫啓介に負けず劣らず優しく温かい恒の心に、ファンとしてではなく、ひとりの女として少しずつ惹かれ始めていた。啓太がいるためか、恋人同士になりたいという思いはなかったが、友人としての距離は一気に縮んだように感じられた。そしてその感覚は恒も同じだった。永美の健気で直向(ひたむき)きな心に、恒はいつしか安らぎを感じるようになっていた。こんなに素敵な女性である永美の妹は、きっと永美と同じくらいに素敵な女性なのだろうと、ふと思いながら。

もしもあの鳥になれたなら



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2009年11月03日 03:59 


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