
もしもあの鳥になれたなら第2章 -3-

吉井はオーバーモーションで振りかぶると、ワインドアップで六球目を投じた。右手の握りはストレートだった。
吉井の剛速球はビュンッという音と共に目にも止まらぬ速さで飛んで来た。原田はバットを五センチ短く持ち、なんとかそれに食らいついた。ボールはど真中に投げられたにも関わらず、原田はファールを打つことしかできない。しかもバットは粉々に砕かれてしまった。原田はジンジンに痺(しび)れた手をブラブラと振りながら、新しいバットを取りにダッグアウトへと歩いた。
恒が新しいバットと滑り止めスプレーを持って来てくれた。
「原田さん、凄いっすよ!こんな真剣勝負初めて見ました!貴さん相当本気になってますよ。原田さん、絶対打ってくださいね!」
恒は吉井と原田の真剣勝負に逸る気持ちを抑えようとしても、抑え切れなかった。それほどに吉井と原田の勝負は白熱していた。
「楽しそうに言うな。こっちは死に物狂いなんだから」
原田はヘルメットを被り直すと、再びバッター・ボックスと呼ばれるサバンナの谷へと戻っていった。
―カウント、2ストライク、2ボール。次が七球目。
原田はもうストレートしか狙う必要はなくなっていた。それは吉井にはもうストレートを投げる気しかなくなっていたからだ。
ライオンはコヨーテとの間を更にジリジリと詰めていき、コヨーテは逆にその幅を広げようと後ずさりをする。
原田は一度バッター・ボックスを外し、軽く素振りをして見せた。それでも吉井は表情一つ変える様子も見せない。
ライオンは獲物がいつ観念するのかを見計らっていた。
原田がバッター・ボックスに戻ると、吉井は足元のロジン・バッグに手を伸ばして摘まみ上げた。指先に十分の滑り止めをしつらえると、吉井は勢い良くロジンバッグを元あった場所に放り投げた。マウンドからは真っ白い粉煙が立ち昇り、その煙に霞み、吉井が指先につけ過ぎた滑り止めの粉を息で吹いている姿があった。吉井の表情は余裕そのものだった。一方の原田はコヨーテどころか、壁際に追い詰められたネズミも同然。しかし追い詰められたネズミの前に立ちはだかるのは猫ではなく、百獣の王ライオンだった。
「原田さん、頑張って!」
三塁側ダッグアウトでは恒をはじめ、全選手が立ち上がって声を張り上げていた。しかしその声が原田の耳まで届くことはない。
吉井は七球目、ストレートを外角のコースギリギリのところへ投げ込んだ。原田は五センチ短く持ったバットでそれを振りに行こうとしたが、しかし思い留まりバットを寸止めさせた。アンパイアはボールと判定したが、キャッチャーの芦部は一塁塁審にスイングの判定を求めた。だが塁審は両手を横に広げた。バットは止まっていた。
―カウント、2ストライク、3ボール、フルカウント。
球界を代表するエースである吉井と、十五年間万年二軍暮らしの八番バッター原田との勝負は白熱を極めていた。観客も全員が固唾を呑んで次の一球を待っている。その真剣勝負は公式戦さながら、いや、それ以上の緊張感が球場全体を包み込んでいた。
コヨーテはいよいよ水際まで追い詰められ、まさに背水となった。そして灼熱(しゃくねつ)のサバンナに水辺から涼風が迷い込んで来たその瞬間、ライオンは遂にコヨーテに飛び掛かった。吉井は内角低め一杯のところにボールと呼ばれる弾丸を撃ち込んだ。しかし原田もプロ野球選手の端くれ。吉井のストレートに完璧にタイミングを合わせ、替えたばかりの真新しいバットを振り抜いた。そしてその勢いに任せるようにして身体がクルリと回ってしまい、原田はその勢いで倒れそうになり、必死の思いでバットを杖代わりにして身体を支えた。
辺りには焦げ臭さと、マッチ棒の先から火を奪った時のような細い煙が立ち昇っていた。
電光掲示板に目をやると、球速は一五七キロと計測されていて、それを見た原田は思わず苦笑いを溢した。原田のバットを蹴散らしたボールは、芦部のキャッチャーミットに、まるでそこにあるのが当たり前だというような姿で収まっていた。
「ストライーク、バッターアウト!」
アンパイヤは高々と拳を振り上げ、原田は戦友を労わるような目でバットを見やった。するとバットと吉井のストレートが擦れ合った部分が真っ黒に焦げついていて、未だ仄かな煙を立ち上げていた。
原田は真剣勝負の後のあまりもの清々しさに、後輩である吉井に目礼をした。すると吉井も帽子の鍔(つば)を軽く摘まみ、野球選手特有の礼でそれに応える。観客からはスタンディングオベーションがふたりに贈られた。永美と啓太も立ち上がり、頻(しき)りに手を叩き続けた。
原田はこの瞬間にひとつの覚悟を決めた。残りの野球人生であと何回このような素晴らしい拍手をもらえるか分からない。それならばこの試合を、自分の野球人生最後の、そして最高の思い出にしようと。サバンナでの死闘を終えた原田は、三十三歳での引退を決意したのだった。
試合は結局0対0の引分けに終わった。吉井は紅白戦ながらも完全試合を達成し、恒も七安打を打たれながらも要所を締め、九イニングを完封で締めくくった。吉井と恒の投げ合いは、一軍の公式戦でエース同士が投げ合っても滅多に見られないほどの緊迫した投手戦になった。
打者全盛のこの時代で、ピッチャーが九回を完投して0点に抑えるということは、困難極まる偉業とも言える。生身のピッチャーよりも速い球を投じるバッティングマシーン、年々改良されて遠くまで飛んでいくボール、気流が一定していて打球の勢いが衰えないドーム球場、これらの要素はすべてピッチャーには不利に働くものであり、これこそが現代野球を打高投低へとせしめていた。
バッターの練習方法は年々向上しているにも関わらず、ピッチャーの練習方法は五十年前と何ら変わりがない。ただひたすらに走り込み、投げ込みをするに限られている。バッターのホームラン数は年間三十本から、五十本へと一気に飛躍したが、ピッチャーの投げる球速は一五〇キロが未だ高速とされ、日本には未だ一六〇キロを投げるピッチャーは現れていない。吉井が叩き出した一五七キロが日本最速記録となっていた。
スタンドからは盛大な吉井コールと平尾コールが湧き起こった。ファンにとってもそれほど見応えのある紅白戦となった。
試合後、吉井と平尾は監督の西尾に呼ばれ、二人とも右腕をアイシングでグルグル巻きにされた状態で監督室にやって来た。
「二人ともナイスピッチングだったな。打撃陣は一点も取れながったが、今日のお前さんたちのピッチングじゃ、責めることは出来んだろう」
西尾はスコアブックを眺めたままだった。
「吉井、来年の開幕もお前に託す。そして平尾、お前は第二戦での先発だ」
吉井はもう分かっているといった表情で「はい」と応えたが、恒は驚きのあまり返事をし損なってしまった。
「平尾、聞いてるのか?」
西尾は豆鉄砲を撃たれた鳩のような表情をしている恒の顔を、半分面白がりながら覗き込んだ。
「は、はい。聞いています。でも、本当に・・・・・・、」
恒は西尾の言葉にかなり高揚していた。八月の初先発で打ち込まれても、セットアッパーとして使い続けてくれた西尾の言葉を半分喜びながら、半分疑いながら。
「なんだ?嫌ならいいんだぞ。今まで通りセットアッパーでも」
西尾はとうとう笑うのを堪え切れなくなり、話題を変えた。
「平尾、お前には吉井とエースの座を競い合ってもらわなきゃ困る。そこでお前の背番号だが、五八じゃちょっと重すぎるだろう?どうだ、四十引いてみないか?」
西尾は恒の背番号を五八から一八に変えることを提案した。恒はとても長く感じられる数秒を考え込んだが、その提案は来年先発として結果を出してから改めて再考するということで断った。この時恒の頭に浮かんでいたのは、いつも五八番のレプリカ・ユニフォームを着て応援してくれている永美と啓太の姿だった。恒が背番号を一八に変えれば、二人もきっと一八番のレプリカ・ユニフォームで応援してくれる。しかし来シーズン開幕第二戦の先発を任された今の恒があるのは、いつも五八番のレプリカ・ユニフォームを着て応援してくれた永美と啓太の存在があってこそだった。プロに入った当初は、一八、二一というエースナンバーに憧れを抱いていた恒だったが、今の恒にとっては五八番こそがエースナンバーであり、五八番が一軍のマウンドで舞う姿を、永美と啓太に見て欲しいと思っていた。
「来年は俺の監督契約最後の年だ。優勝できなきゃクビにされちまうから、二人ともしっかり頼むぞ。お前らが普通にやってくれるだけでうちの優勝は固い」


2009年11月03日 03:58 Tweet



