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もしもあの鳥になれたなら第2章 -1-


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第二章 サバンナ

紅白戦当日の朝、恒は明け方に目を覚ましてしまった。冷蔵庫の扉を開けっ放して、その明かりを照明代わりにしながら、牛乳をパックから直接渇き切っていた喉に流し込んだ。そして喉を潤してやると、再びベッドに潜り込んだ。しかしこの朝の内に眠気が戻ってくることはもうなかった。
恒はブルーのチェック柄のパジャマをブルーのウィンドブレーカーに着替えると、近所を散歩に出掛けた。恒は早朝の散歩と真夜中の散歩が好きだった。排気ガスの匂いがしない澄んだ空気と空が楽しめる。とは言え、恒は早起きがあまり得意ではなく、そのほとんどが真夜中の散歩ではあったが。サワサワとさんざめく木々、リンリンと鳴きしきる虫の声、シンシンと静まり返る寮の目の前に広がる森。恒はそのどれもが好きだった。普通若手選手というのは、一年でも早く寮を出て一人暮らしをしたいと思うものなのだが、恒に限っては寮を出たいという気持ちはまったくなかった。それは真夜中や早朝だけに感じられる、この町の最高の表情を知っているからだった。
恒は寮の目と鼻の先にある狭山不動尊まで歩いて来た。寮から片道一車線の車道をを挟んですぐ目の前にあると思いきや、この不動尊はとても高い場所に建立されていて、平行面では寮のすぐ目の前なのだが、垂直面となるとそれはかなり違った。境内までたどり着くには六十段以上の急な階段を登り、五十メートル以上はある勾配のきつい坂道を登らなければならない。野球選手の恒でも、頂上の境内までたどり着くと少しばかり息が上がった。
恒は賽銭箱の前までゆっくりと近付くと、百円玉を投げて必勝祈願の願掛けをした。
「百円で吉井さんに勝とうなんて、少し虫が良すぎるかな」
そう呟くと、恒はもう一枚百円玉を投げ入れた。
「勝たせてくれたら、試合後にもう一枚入れに来ます」
恒は両手をしっかりと合わせ、頑なに目を閉じ、吉井に勝てるようにと祈った。

試合開始前、恒はサブグラウンドで身体を温めていた。いつものように金網に結びつけたゴムバンドを使い、肘のインナーマッスルを鍛えている。肘の関節を使うだけの単調でほとんど疲れることもない、あまりやりがいのない練習ではあったが、ピッチャーにとっては怪我をしないためのとても重要なトレーニングだった。インナーマッスルは、力こぶを作るアウターマッスルの内側にあって、アウターマッスルを動かすための細い筋肉のこと。恒はこのようなあまり目立たない練習にも余念を交えなかった。そして恒のピッチャーとしてのこのような習慣は、すべて吉井を見習った上での結果だった。
「恒兄ちゃん!」
恒が黙々とゴムバンドを引っ張っていると、金網越しに永美と啓太が近寄って来た。この日は日曜日とあって、他にも練習を観に来ているファンがたくさんいる。
「やぁ、啓太、観に来てくれたんだ」
恒は小さな啓太の身長に合わせてしゃがみ込み、金網の隙間に指を入れて啓太と軽い握手を交わした。
「恒兄ちゃん頑張ってね!絶対勝ってね!」
啓太の笑顔はいつでも実直だ。
「あぁ、絶対に勝つよ。だから啓太もしっかり応援してくれよな」
「うん!」
恒は立ち上がり、今日は永美がどんなバレッタをしているかを確かめようとした。しかしバレッタよりも先に目に入ってきたのは、永美が左腕に巻いている包帯だった。
「永美さん、その怪我どうしたんですか?」
恒は心配で、今にも二メートルの高さは優にある金網を乗り越えそうな勢いだった。
「あ、これ?実は仕事の帰り、保育園に啓太を迎えに行く途中で車をぶつけちゃったの。呆っと考えごとしちゃってたのよね」
永美は恥ずかしさを誤魔化すように、啓太の頭を撫でていた。
「大丈夫ですか?気をつけてくださいね」
「ありがと。今日は平尾君三塁側なんだよね?ダッグアウトのすぐ上の席で応援してるから、絶対に勝ってね!」
恒は少しだけ綻んでいる金網の隙間に手を入れ、永美とパチンと掌を叩き合わせた。それを啓太が羨ましそうに眺めていたので永美は、啓太を恒と手を合わせられる綻びた金網の高さまで抱き上げた。しかし恒の大きな手と、啓太の小さ過ぎる手が叩き合わされても、パチンという良い音は鳴らず、啓太はそれを少し不服そうにしていた。

試合は白いホーム用のユニフォームを来た白組が一軍選抜で後攻め、ビジター用の青とグレーのユニフォームの紅組が二軍選抜の先攻めで開始された。白組の先発吉井、紅組の先発恒、共にチームからの大きな期待とプレッシャーとを背負ってマウンドに登った。特に吉井は一軍フルメンバーで挑むのだから、恒に勝つこと以前に、二軍相手に負けることは絶対に許されない。そして恒も負ける気など毛頭なく、一軍相手に一点も与えないつもりでいた。
先発ピッチャーは試合が始まり、最初のヒットを打たれるまではいつでもノーヒットノーランを狙っている。そして最初のヒットを打たれてしまうと、その頭を今度は完封勝利へとシフトチェンジする。だが点をも取られてしまったなら、次は完投勝利へと方向転換をする。それが先発ピッチャーと呼ばれる者の性(さが)であり、エースと呼ばれるピッチャーたちの誇りでもあった。エース足る者、誰にもマウンドを譲る気などなく、ましてや相手の先発ピッチャーよりも先にマウンドを降りてしまうことは、屈辱以外の何物でもない。吉井と恒も当然そんなエースの美学を胸に秘めていた。
そしてそのエースとしてのプライドを初回三者連続三振という結果でまざまざと見せ付けたのは、まずは吉井の方だった。吉井は二軍の選手たちを、まるで相手にしていないといった余裕のピッチングできりきり舞いにしていった。そこにはまさに一軍のエースとしての貫禄が備わっている。吉井の背中は背番号の二一という数字以上に大きく感じられた。
一方の恒は、一回裏のピッチングで早くも一軍の打線に捕まってしまった。一・二番に連続ヒットを許し、三番バッターにはフォアボールを与えてしまい、あっと言う間にノーアウト満塁というピンチに陥った。恒がマウンド上で悔しさのあまり土を蹴り上げていると、キャッチャーの原田が小走りでマウンドまでやって来た。原田は三十三歳のベテランキャッチャーだったが、実に現役生活十五年のほとんどを二軍で暮らしている。
「平尾、力み過ぎだ。ボールが指に全然引っ掛かってない。お前はもう二軍レベルのピッチャーじゃないんだ。実力を普通に出しさえすれば、一軍のバッターだってそう簡単には打てないはずだ。だからもっと相手を見下ろすくらいの気持ちで、肩の力抜いて俺のミットだけを目掛けて投げ込んで来い!」
原田は右手を恒の背中に回され、二人揃ってセンター方向を向いて話をしていた。恒が二軍で登板する時にバッテリーを組むキャッチャーは、大抵が原田だった。そして恒の野球人生において、最も恒のボールを受けているのもまた原田だった。絶対の信頼を置いている女房役の原田に尻を叩かれ、恒はやっと冷静になれた。
落ち着きを取り戻した恒は、この年ホームラン王を獲得している四番タイラーを、渾身のストレートでピッチャーゴロ・ホームゲッツーに仕留め、一瞬でツーアウトを取った。そして五番を打つ正捕手の芦部にはストレートを見せ球に使い、緩いカーブでファールを打たせてカウントをバッター・イン・ザ・ホール(バッターに不利なボールカウント)にすると、バッターを通り過ぎてから、ボールゾーンからストライクゾーンに曲がり込んでくるスライダーで、見逃しの三振に打ち取った。このスライダーは恒のウィニングショットだった。
その後吉井と恒はお互い一歩も譲らず、試合は五回まで膠着状態が続いていた。しかも二軍は吉井からまだ一本のヒットも打てず、六回までで打者十八人を送り込み、十二個の三振を奪われパーフェクトに抑えられている。一方の恒はヒットを打たれつつも要所要所をきちんと締め、ここまで一軍を無失点に抑える好投を続けていた。しかし事件は六回裏、ツーアウトを取った後に起こった。
バッターは四番のタイラー。恒の一五〇キロを優に超すストレートを弾き返したのだが、その強烈な弾丸ライナーが恒の腹部を直撃してしまったのだ。恒は蹲(うずくま)りながらも転々とするボールをはっしと掴み、ファーストミット目掛けて全力で放った。間一髪アウトにはなったが、恒は腹を両手で押さえてそのままぐったりと倒れ伏してしまった。球場内は騒然となり、チームトレーナーが慌てて恒のもとに駆け寄る。恒はまだ腹を押さえて蹲ったままでいる。トレーナーは何度も「大丈夫か?」と訊ねた。しかし恒がなかなか返事をできないでいると、トレーナーは担架を持ってくるようにと指示を出した。しかし恒はそれを慌てて制止した。
「大丈夫です、ボールが鳩尾(みぞおち)に入ってちょっと息が吸えなかっただけですから。こんなの何ともありません」
そう言うと恒はトレーナーの肩を借りて、気丈に立ち上がった。スタンドから大きな拍手が湧き起こる。この日は紅白戦であるにも関わらず、吉井と恒が投げ合うということでたくさんのファンが球場に詰め掛けていた。
「本当に大丈夫なのか?」
トレーナーはそれが仕事であると言わんばかりに、しきりに訊ねた。

もしもあの鳥になれたなら



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2009年11月03日 03:54 


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