
もしもあの鳥になれたなら第1章 -8-

あかりは映画を観た後の電話で翌日、駅前のベーカリーカフェで森杉とランチをとる約束をしていた。それは胸の中で膨らみ過ぎてしまった、毎週金曜日にやってくる彼のことを相談するためで、午前中の講義を終えると、約束の三十分前にはカフェに到着していた。あかりはこの店のブレンドコーヒーとブルーベリーデニッシュが大のお気に入りだった。講義で出された課題を、何時間もこのカフェに篭って済ませることもしばしばあった。この店を経営している老夫婦は、まるでしばらく会っていなかった孫が夏休みに田舎に訪ねてきた時の、祖父母のように温かい笑顔で客を迎えてくれるとても温かな夫婦で、それはそのまま店の雰囲気にもなっていた。あかりがそんな中、オズボーンに注がれた熱いコーヒーをすすっていると、十五分遅れで森杉がやってきた。
「ごめんごめん、遅れちゃったね」
森杉は文字通り店に駆け込んできた。
「いえ、急に呼び出しちゃったのは私ですから」
あかりが謝ると、森杉は「気にするな」と言うように顔の前で二、三度手を振って見せ、この店自慢のランチセットを注文した。
「その顔見ると、相当参ってるみたいだな」
森杉はその場の空気をきちんと読める男で、決して拍子外れなことは言わない。
あかりは森杉にそう言われて力なく頷くと、珍しくため息を漏らした。
「彼がお店に来る度にどんどん好きになっていっちゃうんです。彼が来てくれると、私すごく元気になれるんだけど、それ以外の時間がすごく苦しくて」
あかりはテーブルの上でカップを握っている両手を眺めるようにして俯いた。
「落ち込むことなんてないって。恋なんてどれを取ったってそんなもんなんだから。例えばもし百瀬ちゃんがヨーグルトレモンの彼じゃなくて、俺を好きになっていたって同じだぜ。例えはちょっと悪いけどさ、とにかく恋ってやつはそういうもんなんだよ。けどその辛さを乗り越えられた時には、苦しい恋は安らかな愛に変身してるんだ」
あかりは今まで恋の辛さばかり気にしてしまい、その先のことはほとんど考えたことがなかった。
「愛、ですか?」
あかりは徐に顔を上げてみせる。
「そう、愛だよ、愛」
丁度その時ランチセットが運ばれてきた。森杉はコーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れると、カチャカチャと湿った風鈴のような音を立てながら、勢い良く掻き混ぜた。そして匂いを嗅ぐと「う~ん」と幸せそうに一つ唸った。
「百瀬ちゃんさ、本当に彼のこと好きなんだろ?」
森杉は溶け切らずに沈んでしまっていた砂糖をスプーンですくって口に運んだ。
「・・・・・・多分」
あかりの答えは力なかった。すると森杉はキッパリと言い切った。
「それじゃダメだ。多分なんかじゃね。多分ってのは一番良くない。彼にも失礼だし、何よりも百瀬ちゃん自身がその多分ってやつに壊されちまう。だから多分のままなら、彼のことはスッパリと忘れた方がいい。いいかい?イタリアに行ってバリスタになるという夢は、今の百瀬ちゃんにとっては唯一の夢だ。だけど彼への想いが多分なら、彼はまだ唯一の存在じゃない。ひょっとしたら俺か、小沼店長だっていいかもしれないってことだよ。多分ってそういうことだぜ」
森杉の言葉には精一杯の力が込められていたが、その反面声には道端の仔犬の頭を撫でてやるような優しい響きが感じられた。
「・・・・・・わたしのお姉ちゃんがよく言ってました。もしわたしが誰かを好きになったら、好きっていうその気持ちを絶対に疑っちゃダメだって。わたし、まだ疑ってますよね」
あかりは自嘲するような笑みを浮かべた。
「わたしのお姉ちゃんって、結婚してすぐに旦那さんを交通事故で亡くしちゃったんです。そのせいなのか、私の顔を見るたびに、最後は幸せでいられる恋を見付けなさいって言うんですよ。それって、恋って最初はどれも胸が苦しくなるってことなんでしょうか?」
森杉は焼き立てのブレッドを頬張りながらも、あかりの言葉を一言一句聞き逃すまいと耳を澄ませていた。
「・・・・・・わたし、やっぱり彼のことが好きです。でも、だからこそこの気持ちを胸に秘めておかなきゃって思うんです。私はあと半年もしたらイタリアに留学しちゃうんだし、そしたら週に一度の金曜日どころか、もう一生会えなくなっちゃうかもしれません。だから今度の恋は、胸の引き出しにそっとしまっておこうと思います。森杉さんの言う通り、私にはバリスタになる夢がありますから」
森杉はランチをすっかり平らげていた。
「俺はさ、実際のところどっちでもいいって思うんだ。恋と夢、どっちを選んでもね。どっちとも大切なものだと思うしさ。だけど後悔だけはして欲しくないんだ。もし今バリスタになる夢じゃなくて恋を選んでしまって、仮に将来その恋を失ってしまったら、夢を諦めたことを恋のせいにしてしまうだろ?だけど夢を選んで恋を諦めて、仮にバリスタになれなかったとしても、それを恋のせいにはしない。そうやって考えると、どっちも大切とは言え、今は夢を選んどいた方がいいって、俺としてはそう思うんだ」
森杉の語り口調は真剣そのものだった。
「私もそう思います。後悔だけは絶対にしたくありません」
あかりは空になったオズボーンの底を覗き込みながら言った。
「でもさ、好きだっていう気持ちを押し殺しちまうことはないと思うぜ。好きなら好きのまま、そのままでいいと思う。今まで通りの気持ちで彼にヨーグルトレモンを持っていってやんなよ」
あかりはつくづく森杉に相談してみて良かったと思った。
「ありがとうございます。森杉さんのお陰でなんだかすごく楽になれました」
あかりの笑顔にはいつもの明るさが戻っていた。
「意外と立ち直り早いね」
森杉はからかうようにして笑った。
あかりはそれに微笑みを返した。
「ここ、私がおごりますね」
あかりはこの恋を素敵な片想いとして、イタリアに渡る前の最後の思い出にしようと決心した。あと半年で、あと何回ヨーグルトレモンを運んで上げられるかは分からなかったが、後悔はしないように週に一度、彼にヨーグルトレモンを運んであげようと思った。そしてどんなに店が忙しかったとしても、彼にだけはフレックスストローをちゃんと手渡ししようと心に決めたのだった。


2009年10月28日 02:59 Tweet



