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もしもあの鳥になれたなら第1章 -7-


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夢を見ることはとても心地良い、だけどたどり着くまでは果てしなく遠い。反対に恋はすぐ近くにあるのに、心が苦しいのはなぜだろう―。

遠くの夢と近くの恋。そのふたつを同時に手にすることはできないのだろうか?恋か夢か、どうしても選ばなければならないのだろうか?あかりの心は揺れに揺れていた。バリスタになることは高校時代に初めてカフェでアルバイトを始めた頃から夢に見ていたことで、あかりは精一杯頑張れば、いつかきっとその夢は叶えられる気がしていた。長年培ってきたカフェでの経験と、店長の小沼に教わってきたコーヒーの知識と、大学四年間で学んできたイタリア語も、決して無駄にはならない。イタリア留学をすればそれなりの苦労はあるだろうけど、それでもなんとかやっていく自信はあった。
しかし逆に、今胸に抱いている恋を成就させる自信はまったくなかった。何せあかりは彼の名前すら知らない。名前だけではない。彼の歳も、仕事も、恋人がいるのかどうかも知らない。唯一知っていることと言えば、毎週金曜日にやってきてヨーグルトレモンとツナサンドを注文するということくらいだった。
あかりは今まで生きてきて、ここまで胸が苦しくなる恋をしたのは初めてだった。あかりは今までに何人かと恋人関係を築いたことがあったが、いつも先に相手に告白されてから、それから好きになっていくというパターンばかりだった。それは小学生時代の初恋から変わっていない。同じクラスのある男子から想いを寄せられているということを、あかりは当時仲が良かった女子の一人から聞かされた。するとあかりはどんどんその男子のことを意識するようになっていき、次第にその意識は初恋への変貌を成し遂げていった。十歳の時だった。しかし小学生の初恋など上手くいく方が珍しく、あかりの初恋も進級した時のクラス替えと同時に、今度は思い出へと変貌してしまった。
あかりは冷めたコーヒーカップを両手で握り締めたまま、淡いピンクのシーツで整えられたベッドを背凭れにしてチョコンと座っていた。そしてふとテレビの画面に目をやると、映画はいつの間にかエンドロールまで進んでいて、クライマックスから流れているバラードがあかりを更に切なくさせた。映画の中で心優しき殺し屋を愛した十二歳の少女さながら、少し虚ろな目のままコーヒーカップをテーブルに乗せ、携帯電話に手を伸ばした。

               *

吉井貴はいつものように愛車である漆黒のメルセデスを走らせていた。そしてまたいつものように、運転中は美空ひばりのCDを大音量で鳴らしている。吉井は運転中、CDの美空ひばりとデュエットをするのが好きで、この日も小林旭よろしく渋い声を唸らせていた。
真夜中の新青梅街道、五十キロの距離は優にあるこの直線道路で、美空ひばりのCDを鳴らしながらメルセデスを運転するドライバーは、この吉井以外には決していなかっただろう。
午前一時、吉井は球場に併設されている室内練習場の脇にメルセデスを横付けした。そして黒革のグラブを片手に練習場の扉を開けた。
「高樹さん、いつもすんません」
高樹は若手選手たちが入っている寮の寮長で、室内練習場の管理も任せられている球団職員だった。吉井はたまに眠れない夜があると、高樹に頼んで真夜中のキャッチボールに付き合ってもらっていた。
「気にしなさんな。選手の手伝いをするのが私の仕事だからね」
高樹はいかにも人の良さそうな人相で、誰からも慕われる、選手全員の親父的存在だった。そして高樹もまた、選手たちを我が子のように思っていた。
「俺が毎年成績を残せるのは高樹さんのお陰ですよ。こんな夜中にキャッチボールに付き合ってくれる人なんて高樹さんしかいないっすからね」
吉井は入念に肩のストレッチをしている。
「私は、チームのエースとこうしてキャッチボールができるだけでも光栄だよ」
高樹の優しい眼差しは、まさに父親そのものだった。

吉井には時々眠れない夜があった。ベッドにもぐり込んでもまったく眠気が起きず、眠ったと思ったらまたすぐに目を覚ましてしまう夜が。吉井は今や押しも押されぬエースピッチャーで、チームの期待をほぼ一身に背負っている。吉井が登板する日は、チームは負けることが許されず、吉井はエースに君臨し続けて以来常にそのプレッシャーと戦ってきた。そしていつもギリギリのところでそのプレッシャーに打ち勝ち、その結果が五年連続二桁勝利という実績に繋がっている。吉井はその五年の内、三回最多勝利投手賞を獲得していて、今や日本球界を代表するピッチャーとなっていた。しかし吉井のそんな奮闘がありながらも、レグルスは二年連続で優勝を逃してしまった。吉井はその責任をも一身に背負った。ある試合で二失点で完投したのだが、味方が一点しか取れずに負けてしまったことがあった。そんな時でも吉井は決してチームメイトを責めない。味方が一点取ってくれたにも関わらず、二点を相手チームに献上してしまった自分自身を責めた。
野手がエラーをしてピンチを招いた時は、吉井は絶対に後続のバッターにヒットを許さない。エラーした野手の気持ちを救うためにも。吉井にとって負け試合はすべて自分の責任であり、勝ち試合はすべて野手が打ってくれたお陰だと考えていた。吉井貴とはそんな男気溢れるピッチャーなのだ。
「来週の紅白戦で平尾と投げ合うんだって?お前さんにしたら、公式戦以上に燃える試合になるんじゃないかい?」
 高樹はストレッチする吉井の背中を押してやった。
「どうっすかね。けど平尾のマウンド捌(さば)きを生で見るのは初めてだから、それは楽しみかな。今までブルペンでしかあいつの投球を見たことがなかったですからね」
 吉井はストレッチを終えて立ち上がると、右腕をプロペラのような勢いでグルングルンと振り回し始めた。
「平尾が一軍で一皮剥けてくれればチームは必ず優勝できる、お前さんそう思ってるんだろ?私も同感だよ。もし平尾が一皮剥けて来年仮に二桁勝てれば、間違いなくチームは独走できるだろうな」
「あいつがもし十勝できたら、俺は二十勝してやりますよ」
吉井は不敵な笑みを浮かべてそう返すと、軽くボールを投げ始めた。
「本当にそうなったら、きっと私が監督でも優勝できるだろうな」
高樹も肩を馴らすように山なりのボールを返した。二人は小学生並みのキャッチボールをしばらく続けて肩を充分に温めると、徐々に球速を上げていった。室内練習場にはズドン、ズドン、というボールがグラブを貫こうとする乾いた音だけが響き渡る。それはまるで銃声のような凄まじい音だった。

もしもあの鳥になれたなら



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2009年10月28日 02:58 


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