
もしもあの鳥になれたなら第1章 -6-

極的になっている。恒は恋をすると彼女を好きだという気持ちよりも、彼女に嫌われたくないという気持ちの方がどうしても勝ってしまうのだった。だから毎週金曜日の夜、カフェに通ってあかりに接客をされていても、嫌われたくないという気持ちが恒の心身を固くさせていた。なんとも思っていないような相手であれば、きっと気兼ねなく食事に誘えるだろうし、映画にだって誘うこともできただろう。しかしあかりを誘うことはまだできずにいる。もちろん吉井に言われた手土産のこともあったが、それ以上に、もし食事や映画に誘って、あかりに嫌われてしまったらどうしようという気持ちが勝ってしまうのだ。恒はそんな自分が情けなくて仕方なかった。だからそんな弱気を打破するためにも、どうしても初勝利という名の自信への糧が必要だった。そのために恒は秋季キャンプで人一倍練習を積んだ。お陰で身体はいつでも筋肉痛だったが、その代わりに毎日着実に技術を向上させていった。過去四年間ほとんど落ちることがなかったフォークボールも、四浪している浪人生の大学受験並によく落ちるようになっていた。
「平尾君、頑張って!」
恒が練習用のサブグラウンドを黙々と走っていると、グラウンドを取り囲む緑色の金網フェンスの外から女性の声が聞こえて来た。その声はとても耳馴染みのある声で、恒は即座に声の主の姿を見つけた。
「永美さん、今日は練習休みですよ」
走るペースを落としながら、恒は声の主へと近付いて行った。
「知ってるわ。だけど平尾君はきっといると思ったから来てみたの」
宮地永美は、恒が埼玉レグルスに入団した一九九七年からずっと、恒のことを応援し続けていた。永美は切れ長で少し憂い気な瞳にフレームレスの眼鏡をかけていて、桜の木の幹に似た色のしっとりとした長い髪は、漣のように緩やかなソバージュがかけられていた。所沢ドームで試合がある時は必ずライトスタンドで、恒の背番号と同じ五八をつけたレプリカユニフォームを着て応援をしてくれる。
永美は球場の目と鼻の先にある、つまり恒が暮らすチームの若手寮の真向かいにある、七階建てマンションの六階に住んでいた。恒が入団した翌年に球場がドーム化されるまでは、いつもベランダからオペラグラス越しに試合を観戦していた。しかしドーム化された今ではそれもできなくなり、永美は地の利を活かして毎試合球場に訪れるようになっていた。
恒が入団した当初は永美も一介のファンに過ぎなかったのだが、恒が投げる二軍の試合や、たまに一軍昇格して投げる時には必ず応援に来てくれ、試合のない練習日にもサブグラウンドにやって来て恒のことを熱心に応援し続けているうち、恒の方がいつしか心を許すようになっていた。永美は所謂熱狂的な追っかけファンとは違い、選手を前にしても黄色い声を上げることはない。いつでも温かい眼差しで選手を見守っているだけだった。だが恒のことだけは熱心に応援してくれる。高校卒業後すぐに北海道から単身上京して独身寮で暮らす恒にとって、いつしか宮地永美は姉同然の存在になっていた。
「新しいやつですか?」
恒はちらりと見えた永美の後ろ髪を指差した。
「え?」
永美には何のことなのか分からなかった。
「その、何て言うんでしたっけ?髪の毛を束ねてるのって、」
永美はやっと恒の言葉の意味が飲み込めた。
「あぁ、バレッタね。そうなの、先週買ったばかり。だけどよく気が付いたわね」
永美はバレッタを髪から外すと、頭を一、二度左右に振り、しなやかな長い髪を少し遊ばせた。そして星型の穴が三つ刳(く)り貫かれているパステルブルーのバレッタを、嬉しそうに恒に見せた。
「だっていつも違うのを付けてるから、段々会うたびに注意して見るようになっちゃって。今日はどんなのを付けてるんだろうって」
「嬉しい。私は平尾君のファンだけど、平尾君は私のファンってわけね」
永美は悪戯っぽく人懐こい笑顔でそう言うと、バレッタを付け直した。
「今日は啓太は?」
永美には啓太(けいた)という今度の大晦日にやっと三歳になる息子がいて、球場にはいつも啓太と一緒に来ていた。啓太はミニサイズの五八番のレプリカユニフォームをいつも、まるで少女のワンピースのようにぶかぶかにかぶせられていた。そんな啓太と恒も、今では歳の離れた本当の兄弟のように仲良くなっていた。
「これから保育園に迎えに行くところなの。啓太ったら、毎日毎日いつになったらまた野球やるの?って聞いてくるのよ。もうじき三歳になるんだけど、春になったらって言う意味がまだ分からないみたい」
永美には最愛の夫がいたが、啓太が生まれたその日、車で仕事場から病院にやってくる途中、カーブを曲がり切れずに反対車線からはみ出して来たトラックと正面衝突してしまい、啓太が生まれたまさにその瞬間、二十三歳という若さでこの世を去っていた。そのため今は、永美が出版社の契約社員としてテープ起しの仕事をしながら、女手一つで啓太を育てていた。
「良かったら今度の日曜日球場に来てください。秋季キャンプ最後の日に紅白戦をやるんですけど、僕と貴さんが先発するんです。永美さんと啓太が応援に来てくれたら励みにもなりますから」
恒は大粒の汗に吹きかかる秋風に、少し肌寒さを覚えていた。
「絶対行くわ。平尾君と吉井さんが投げ合うところなんて一生に何度見られるか分からないしね。楽しみにしてる」
そう言うと、永美は啓太を迎えに行く時間だと言って、恒に「頑張ってね」と一言告げると、息子がいるとは思えないほど華奢な後姿を弾ませながら、高台の上にあるサブグラウンドから駐車場へと繋がる階段をトコトコと降りて行った。その後姿が見えなくなる寸前、太陽がバレッタを照らし、その反射が恒に瞼を覆わせた。
*
この日は火曜日であかりはカフェでのバイトが休みだったため、大学の講義が終わるとレンタルショップでビデオを借りてから部屋に戻り、挽きたてのコロンビア豆で淹れたコーヒーを飲みながらそれを観ていた。借りて来たのは、十二歳の少女に愛されてしまう殺し屋の話だった。あかりはこの映画が大好きで、数ヵ月に一度は必ず借りて観ていた。次に来るシーンや台詞、音楽などほとんどを丸暗記していた。
しかしこの日はまったく映画に集中できなかった。それは毎週金曜日に店を訪れて、ヨーグルトレモンを注文する彼のことばかりを考えてしまうからだ。あかりは彼のことを想うたびに、その想いがどんどん膨らんで行くことに気付いていた。それでもあかりにはその膨らみ続ける想いを自分ではどうすることもできない。今は胸の中に蓄積されて行くに任せるしかなかった。


2009年10月28日 02:56 Tweet



