
もしもあの鳥になれたなら第1章 -5-

最近では従業員の更衣室としての役割しか果たしていなかった。 あかりが賄(まかな)いのツナサンドとカプチーノを手にして休憩室に入ると、あかりよりも一つ年上の森杉が煙草の煙を燻(くゆ)らせていた。森杉は元高校球児で、甲子園出場の経験を持っている。いつもは中型のクラシックバイクで店まで通勤しているのだが、この日は秋雨が冷たかったため、車で来ていた。 普段の言動はいつでも大胆不敵な森杉だったが、実はその反面とても繊細な心の持ち主だということを、あかりはすでに気が付いていた。 「お疲れさまです。今日は車ですか?」 あかりは固いパイプ椅子に腰を下ろしながら言った。 「雨だからね。それより百瀬ちゃん、」 森杉は苗字をちゃん付けして呼ぶのが癖だった。 「小沼店長に聞いたんだけど、店辞めちゃうんだって?」 森杉の煙草の灰は限界に差し掛かっていて、今にも落っこちて、バイクに乗る時にも最適なカーキのジャンパーに焦げ目を付けてしまいそうだった。 「はい。けど大学を卒業する来年の三月までは、まだまだ頑張りますよ」 あかりは今大学四年生で、半年後の卒業はほぼ確実な状況だった。 「寂しくなるなぁ。百瀬ちゃんはこの店のマドンナだから、辞めたら絶対売上に響くだろうな」 森杉はいつでも調子の良い口振りをしていたが、しかしそれはいつでも本心だった。 「そんなことありませんよ。わたしがいなくなっても森杉さんがいるじゃないですか」 あかりはカプチーノを掻き混ぜながら言った。 「バカ言っちゃいけないよ、誰が野郎目当てでこんな店に来るってんだよ。百瀬ちゃんが辞めたらこの店は二年と持たないぜ、きっと」 現にこのカフェはあかりが辞めた二年後に閉店してしまうのだが、この時のあかりと森杉にはそんな事実を知る由もなかった。 「それで、辞めてどうするの?就職?」 「いいえ、イタリアに留学するんです。わたし、誰よりも美味しいカプチーノを淹れられるバリスタになりたいんです。だから本場のイタリアに行ってみっちりと修行をして来るつもりです」 あかりのスケールの大きな将来に、森杉は少し呆気に取られていた。 「大学でもイタリア語を専攻していたんで、これでもけっこう喋れるんですよ」 あかりは小さな口でツナサンドを一口かじる。 「高校時代ここでバイトし始めた時、小沼店長にバリスタの話を聞いたんです。それ以来ずっと最高のバリスタになりたいって思ってたんです」 あかりの瞳は笑顔のせいでとても細くなっていたが、それでも街頭に照らされる秋雨の粒とは比べられないほどに輝いていた。森杉もその輝きを横目に見ると、つい自分まで笑顔になってしまう。あかりの笑顔はそんな不思議な力を持っていた。あかりの笑顔には周囲にも笑顔を伝染させる不思議な力があった。 「そっか、百瀬ちゃんにもデカイ夢があるってわけだ。けどさ、ヨーグルトレモンの彼はどうすんのよ?百瀬ちゃん、彼のこと好きなんだろ?見てれば分かるよ。俺だってそこまで青かないからね」 あかりの唯一の心残り、それがヨーグルトレモンの彼だった。イタリアに行けば自分の夢を叶えられるかもしれない。しかしそれは同時に、せっかく芽生えた恋を枯らしてしまうことを意味していた。あかりは今年の夏からよく店を訪れるようになったヨーグルトレモンの彼が気になり出し、いつしか確かなる想いを馳せるようになっていた。彼を前にすると、どうしても多過ぎるほどの笑顔を隠し切ることができない。 「後悔はしない方がいいよ。恋なんてどこにでも転がってるもんじゃないしさ。もし本当に彼のことが好きなら、イタリアに行く前にハッキリさせとかないと。想いを伝えるのか、それとも秘めたまま彼のことはスッパリ忘れるのか」 森杉はあかりの背中をポンポンと叩くと、咥え煙草のまま、家路につくために休憩室から店内に出て行こうとした。 「森杉さん、煙草、」 あかりは小声で森杉の煙草を指差した。 「おっと、危うい危うい。また店長に叱られるとこだったよ。先週もやっちゃってさ。助かったよ、サンキュ。それじゃお疲れね。恋愛相談ならいつでも受け付けてるから、いつでも言ってよ。自分の恋愛が不調な分、人のことに関しちゃかなりのもんなんだぜ」 あかりは薄れかかった笑顔で頷くと、イタリア人よろしくウィンクをしながら出て行く森杉の背中を見送った。あかりは確かに悩んでいた。ヨーグルトレモンの彼、彼の名前すら知らないが、それでも彼が店にやってくると、それだけでなんだかとても幸せな気分になれた。しかし自分は半年後には店を辞めてイタリアに旅立ってしまう身。神様はなぜこんなタイミングで恋を芽生えさせたのだろう、あかりは彼のことを考えるたびにそう思ってしまった。 こんなタイミングでこれ以上想いを募らせることはとても辛かった。毎週金曜日の夜に店に来てくれる彼、笑顔を向けると必ず笑顔を返してくれる彼、コーヒーが苦手で寒い日でもいつもヨーグルトレモンを注文する彼、いつも野球雑誌を開いている彼。あかりはそんな彼のことが本当に好きだった。彼の気持ちがハッキリと分かってしまえば少しは楽だったかも知れないが、しかし彼はあかりにそのような態度は一向に見せてはくれない。確かに店員と客という立場においては顔馴染以上にはなれたが、しかしそれ以外では、彼は他の客と何ら相違なかった。週に一度店に来て、ヨーグルトレモンを飲み終わったら会計してそのまま帰ってしまう。食事や映画に誘ってくれることもなければ、自己紹介がてらに名刺をくれることもなかった。 秋という季節に便乗してか、あかりは少しばかり切ない気分になった。あかりの過去の恋たちがみなそうだったように、今度の恋も片想いで終わってしまうのだろうかと、味わい慣れた切なさに浸っている。だが今度の恋は今までのそれとは少し違い、切ないだけではない。少なくとも毎週金曜の夜に彼が店に来てくれることが、あかりを幸せな気分にさせてくれた。今度彼が店に来てくれた時は勇気を振り絞って、せめて名前だけでも聞いてみよう、あかりはそう心に小さな決意を固めるのだった。 あれこれと考えていると、カプチーノとツナサンドはすっかり冷たくなってしまい、休憩時間も残り五分になっていた。 * 秋季キャンプ真っ只中のこの日、一週間振りに練習が休みになった。しかし恒だけはグラウンドに姿を現し、一人黙々と走り続けていた。来年は吉井と開幕投手の座を争い、先発投手の一角として監督やコーチからも期待されている。恒はその期待に応えたかった。そして何よりもまずは、吉井に言われたあかりへの手土産ともなる初勝利がどうしても欲しかった。そのウィニングボールさえあれば、それが自信となって臆することなくあかりをデートに誘うこともできるかもしれない、そう考えていた。 恒は恋愛に関してはいつでも消極的だった。特に今回の恋はいつもにも増して消


2009年10月28日 02:56 Tweet


