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もしもあの鳥になれたなら第1章 -4-


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るということは、口で言えるほど簡単なことじゃねえんだ。だからもしずっとエースでいられるんだったら、俺は十キロだろうが二十キロだろうが喜んで走ってやるさ」
重みのあるその言葉を聞き、恒は吉井と競えると思い喜んだ自分を、とてもおこがましく感じた。そして監督やコーチから期待されている限り、自分も吉井以上に努力をしなくてはいけないという決心が、また新たに湧き起こった。
「だけど優勝できなきゃそれも意味ないけどな。それより、」
吉井はテーブル越しに身を乗り出してきた。
「お前、あの子に惚れたろ?」
突拍子もないその言葉に、恒はまさに狼狽してしまった。
「あの子な、毎週火曜日は休みなんだよ。だから店に来るんなら火曜日以外に来なくちゃな」
吉井の喋り方はまるで、マウンド上でグラブを口元に宛て、敵に何を喋っているか読まれないようにヒソヒソ話をするバッテリーのようだった。
「な、何言ってるんですか。僕はそんなんじゃありません」
恒はしどろもどろになって否定してはみたものの、それはまったく説得力のない反論だった。吉井にはすべてお見通しなのだ。元々吉井は、恒にあかりを紹介しようと密かに企て、店に連れて来たのだった。もちろん吉井がその企てを恒に話すことはなかったが、初めて店に連れて来た時から、すでにその必要はなくなっていた。吉井は、恒があかりに一目惚れしたことを確信していた。
「いいか、よく聞け。男が女に惚れる時は手ぶらなんて以ての外だ。もし彼女を落としたいんだったら、それなりの手土産ってもんがあるだろ」
「手土産、ですか?」
「そうだ。お前にはまず初勝利っていう手土産が必要だ。男だったら負けっぱなしの状態で女に声なんてかけるな。もしお前にプライドがあったならの話だがな」
吉井は説得力のある分厚い声でそう言うと、恒の肩をポンポンと力強く叩き、何事もなかったかのように店を出て行った。その吉井と入れ替わるかのように、ヨーグルトレモンとツナサンドが運ばれて来た。
吉井は、恒はハッキリとした目的を持っていないから勝利への執着が薄いのだと考えていた。だから対照が何であれ、恒が勝利への執着心を持ってくれることを、吉井は切に願っていたのだ。そうすれば恒に足りなかったものが補われ、一皮剥けてくれるはずだった。勝利への執着心、それは選手にとって何よりも大切なもの。負けて悔しがらない選手は決して大成しない。そしてそんな選手に勝利の女神が微笑んでくれることも決してないということを、吉井はよく知っていた。

吉井の言う通り、恒はあかりに仄(ほの)かな想いを寄せていた。自分ではそれほどの意識はなかったが、吉井に図星を突かれ、それをハッキリと意識するようになった。恒はそれ以来、毎週火曜日ではなく、金曜日の夜にそのカフェに通いつめた。そしていつも決まってヨーグルトレモンとツナサンドを注文した。たまにはちょっと見栄を張って炭火珈琲でもと思うこともあったが、恒はコーヒーが苦手だった。あのそこはかとない苦さに耐えられず、砂糖とミルクをたっぷりと溶かしてやっと飲めるというほどだ。普通のコーヒーでもそんな風なのだから、このカフェオリジナルの深入り炭火珈琲など、恒にとってはまさに以ての外だった。このコーヒーの豆はフルローストされていて、カフェインフリーではあったが限りなくフレンチコーヒーに近く、果てしなく苦い。余程のコーヒー通でなければブラックではとても飲めない代物だった。しかし身体にはとてもよく、新陳代謝を促進してくれるし、二日酔いにも良く効く。炭火珈琲は、このカフェ自慢の一品だった。
もしナポレオン・ボナパルトを失脚させようとしたタレーラン・ペリゴールがこのコーヒーを飲んだなら、きっとあの名台詞をもう一度言い直したに違いなかった。
「コーヒー、それは悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のようにピュアで、恋のように甘い」
しかし恒はそんな台詞など知る由もなく、店員たちからは影で、「ヨーグルトレモンの人」と呼ばれていた。
ある日、あかりが恒に訊いたことがあった。
「コーヒーはお好きじゃないんですか?」
恒にとっては一番訊かれたくないことだった。
「あ、いや、コーヒーも好きなんだけど、こっちの方が好きなんだ」
恒はあかりの視線から逃れるように、慌ててヨーグルトレモンのストローに口をつけた。するとあかりは柔らかな微笑みを浮かべながら、囁くような声で言った。
「コーヒー苦手なんですね。もしよかったら今度、あめりかん珈琲っていうあまり苦くないコーヒーもありますから、いつか飲んでみて下さい」
あかりの笑顔はいつでも柔らかくて温かい。まるで柔軟剤をたっぷり使って洗い晒した真っ白いTシャツのように柔らかく、温かく、そして爽やかで、肌触りの心地よい笑顔だった。恒はこの笑顔を目の当たりにするたびに、どんどんあかりへの想いを膨らませていった。あかりのことを考えると、時には眠れない夜が訪れるほどに。恒は今までにも恋をしたことはあったが、しかし今あかりを想っているような、心を篩(ふるい)に掛けられているように胸の高鳴る恋は初めてだった。過去に付き合ってきた女性たちに対しては、守ってあげなくちゃいけないという、半ば義務感に縛り付けられたような意思しかなかったのだが、あかりに対しては違った。守ってあげたいという、義務感から解き放たれた能動的な意思が湧き起こっていた。
しかしそんな想いも儚く、恒はあかりのことを知らな過ぎた。百瀬あかりという名前は胸のネームプレートで知ることができたが、それ以外に知っていることはひとつもない。年齢も、趣味も、私服姿も。あとは吉井に教えられて、毎週火曜日が休みだということを辛うじて知っているに過ぎなかった。そして恒は自己紹介すらもしていない。つまり自分はあかりの名前を知っていたが、あかりの方は恒の名前を知らないし、プロ野球選手であることももちろん知らなかった。
恒はあかりのことを考えている時、あかりの顔を上手く思い描くことができない。それは毎週金曜日にカフェを訪れても、何故か意味もなく照れてしまい、あかりの顔をまともに見られないからだった。想いが募れば募るほど、知らず知らずのうちにその照れはエスカレートし、言葉にさえ詰まってしまう始末だった。恒は本気であかりに恋をしていた。いや、恋をしているという表現では足りないかもしれない。実際には恋に落ちたという表現が最適だろう。恒は二十二歳にして初めて恋に落ちたのだった。

               *

そのカフェの休憩室はとても狭い。キッチンの奥にある洗い場の更に奥にあって、扉のない入り口を潜ると、四畳ほどのスペースにストック用のショーケース、袋詰めにされたおしぼりが目一杯に詰め込まれて重ねられたケース、従業員用のロッカー、長テーブル、パイプ椅子が所狭しと犇(ひしめ)き合っていた。その更に奥には、きちんと扉のついた店長室がある。しかし更に狭い店長室は、店長室として使われることは滅多にない。

もしもあの鳥になれたなら



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2009年10月28日 02:55 


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