
もしもあの鳥になれたなら第1章 -1-

第一章 ヨーグルトレモン
そのカフェは五日市街道沿いにあった。まるで街開発によって、住宅地に一本だけ取り残されてしまった神木のように憂い気な姿で孤立している。外観は建てられた当時は真っ白だったんだと言わんばかりにくすんだ白。山間から滑り落ちてくる涼風を吸い込むように開かれた、天井まであるテラス席の窓。落ち葉が敷き詰められたまま、ポーチまでさり気なく続く短い階段。これらが伝えてくれるのは、このカフェだって十五年前にできた当時はそれなり瀟洒(しょうしゃ)だったということだけだった。
平尾恒(ごう)と百瀬(ももせ)あかりが初めて出逢ったのは、このカフェの一番奥にあるB七卓と呼ばれているボックス席だった。B七卓は店内の構造上、一番奥ばった壁際に設置されていたため、バリスタがいるコーヒーの立て場や店員たちが集まるレジ周りからはまったくの死角に入ってしまい、注文を忘れられてしまうことも少なくなかった。しかし座ってみると死角に入るだけあり、とても静かで、なかなか落ち着ける席だ。店内にいつも流れているチャーリー・パーカーやウィントン・マルサリスが奏でる自由気ままで、それでいてとても優雅なメロディーさえも、ほとんど聞き取れないほどだった。そのためかB七卓に好んで座るのは、平日ならば深入りのコーヒーを傍(かたわ)らに、決まって二時間読書に耽(ふけ)る初老の男性か、週末であれば、なるべくなら人目を忍んで何度もキスを交わし合いたい若いカップルばかりだ。
恒が初めてこのカフェを訪れB七卓に座ったのは、二〇〇〇年の暑い盛りだった。この年の埼玉レグルスは、ペナントレースが一番盛り上がる夏の真っ只中に優勝が絶望的となり、監督の西尾は翌年を見据えて二軍の若い選手たちをどんどん一軍に上げて経験を積ませていた。その一人に恒も含まれていて、その日は初めて一軍での先発マウンドを託されたにも関わらず、三回も持たずにノックアウトされてしまった日だった。恒は試合後、チームメイトであり先輩でもある吉井貴が運転する漆黒のメルセデスのサイドシートに乗せられて、このカフェに連れて来られた。吉井はこの店の常連らしく、アルトサックスを吹きこなす丸顔の店長、小沼ともすっかり顔馴染になっていた。
「店長、いつもの席空いてる?」
吉井がドスを利かせた爽やかな声で尋ねると、小沼は笑顔を綻(ほころ)ばせることなく「空いております」と、まるでどこかの洋館の執事のように穏やかに答え、近くにいたウェイトレスに指示を出した。
「B七卓に二名様お通ししてください」
とても張りがあってよく通る、安心感を与える声だった。吉井と恒はウェイトレスに誘導され、一番奥の席、B七卓へと通された。吉井は芸能人よろしく黒い野球帽を目深に被り、黒いTシャツに黒いジーンズを合わせ、マウンド上でいつも醸(かも)し出している殺気だったオーラを潜め、追っ手から逃れようとする犯罪者のような猫背でウェイトレスの後を歩いた。吉井のこの姿はどう見ても堅気(かたぎ)の人間とは到底思えなかったが、他の常連客たちからは親しみを込められた声を掛けられている。それもそのはず、吉井はレグルスのエースとして長年ファンに愛され続けているのだ。吉井がこのような姿格好でも絶大な人気を誇るのは、入団当初からその姿にまったく変わりがなく、その姿こそが吉井の素の姿であるとファンたちが理解しているからに他ならない。
吉井はたまにサインを求められつつ、入口から一番遠いB七卓までやっとたどり着くと、声にこそ出さなかったが「どっこらしょ」と言わんばかりの所作で腰を下ろした。恒はその姿を見届けた後、申し訳なさそうに、ちょこんと浅く腰を下ろした。吉井はウェイトレスからおしぼりをもらうと、笑顔でそれを受け取り、いきなり天井を向いて顔の上にそのおしぼりを広げて乗せた。そしてその格好のままヨーグルトレモンを注文した。
恒もおしぼりを受け取ると、「同じものを」と注文した。するとその直後、吉井は顔に乗せたおしぼりをさっと払いのけ、恒をマウンド上でバッターを睨むそれのように、睨(ね)め付けた。
「同じものを、だと?お前には意思ってもんがないのかよ。自分で本当に飲みたいと思うものを注文しろよ。まだメニューすら見てないだろ?仮に本当にヨーグルトレモンが飲みたいんだとしても、ちゃんとヨーグルトレモンって注文しろ。でないと彼女に失礼だろうが」
吉井の口から発せられる言葉には怒気が含まれていたが、しかし吉井自身はこれっぽっちも怒ってはいなかった。吉井は、恒が時折見せる物怖じするような仕草を見ていつも心配していたのだ。恒はピッチャーとしての素質は十分にあるのだが、優しすぎる性格ゆえの気の弱さがその素質を半減させている。恒自身が気付いていないその事実に、吉井は早くから気が付いていたのだ。だからこそ吉井は、恒が物怖じするような姿を見せると、心を鬼にしてわざときつい言葉を浴びせるようにしていた。
吉井に叱られ、恒が浮き足立ったような上ずった声で「ヨーグルトレモンをお願いします」と言うと、ウェイトレスは目を細めてニッコリと微笑み、キッカリ四十五度の角度でお辞儀をすると、トレンチを小脇に抱えて遥か遠くに感じるディシャップまで戻って行った。このウェイトレスこそが、大学四年生の百瀬あかりだった。
「可愛い子だろ?俺が独身だったら今ごろ間違いなく彼女に振られてたな」
吉井は身を乗り出し、冗談めいた小声で囁いた。しかし恒の今の気分はそれどころではない。何せこの日はプロ初先発を任されたにも関わらず、三回も持たずにノックアウトされていたのだから。
「いいか平尾、よく聞け」
吉井は急に改まり、恒の目を深く覗き込んだ。
「勝つと思うな、思えば負けだ。俺も先発デビューん時はお前と同じような内容だった。プロ入り一年目で初先発をさせてもらったのに、滅多打ちに遭っちまってな。結局三イニング投げて十点も取られちまった。それこそ今日のお前よりも酷い内容だった。しかもその後すぐ二軍(した)に落とされて、その年は最後まで一軍(うえ)からお呼びが掛かることはなかったよ。アマチュア時代に培った自信をすべて粉々に打ち砕かれちまった。自分はプロじゃ通用しない、きっとこのまま二軍で腐って、そのまま野球人生も終わっちまうって気もした。けどな、野球の神様ってヤツは気まぐれなんだよ。次のシーズン、最初に先発させてもらった試合で完封勝ちして以来すんなりと結果を出せるようになって、先発ローテに食い込むことができたんだ。だから今日の結果はプロの洗礼だと思って全部忘れちまえ。お前だって諦めずに投げてりゃいつか絶対に勝てる日が来る。だけど勝つと思うなよ。思ったら、その時は負けだ」
吉井は一気に喋り立てた。
恒は少し俯きながらも噛み締めるようにして聞き入った。そして頭の中で何度も繰り返す。「勝つと思うな。思ったら負けだ」と。恒の頭の中ではその言葉が重く圧し掛かっていた。恒は勝てると思ってマウンドに上がっていた。勝てると自分に言い聞かせながら、マウンドの土を蹴り続けた。しかしその結果が三回持たずのノックアウト。せっかく巡ってきたプロ初先発のチャンスをふいのものにしてしまった。
「西尾監督はな、お前が将来先発の柱になることを期待してるんだ。まぁ今日の試合でこの結果だから当分先発はムリだろうけど、セットアッパーとして結果を出して


2009年10月28日 02:40 Tweet



